やまびこ停車場

ただいま、過去に投稿した記事の一部を非公開にしております。

ドリフターズとその時代 笹山敬輔著

題名 ドリフターズとその時代
著者 笹山敬輔
発行所 文藝春秋
発行日 2022年6月20日
ISBN978-4-16-661364-9

 

 去る2022年10月18日、ドリフターズのメンバーである仲本工事さんが横浜市内で交通事故に遭い、翌19日に帰らぬ人となってしまった。

 

 81歳での事故。ニュースを聞いたときは絶望的な一方で、体操で鍛えた身体に希望を託して奇跡の生還を待っていたのだが・・・。やはり仲本さんと言えば、幼い頃に見た「8時だョ!全員集合」での体操コントの印象が一番強かった。改めてご冥福をお祈りします。

 

 仲本さんは体操に、コントに、楽器も弾けて歌も歌った。テレビに出る人は何でも出来る、そういう印象を私に植え付けた人でもあった。

 

 これは、そんな仲本さんが所属していたドリフターズの歴史を綴った本である。この表現は著者からすれば不本意かもしれない。著者はドリフを論ずると言い、日本人にとってドリフとは何かを明らかにするのを目的としたのだから。

 

 端的に言えば、著者の主張がドリフのエピソードに全く負けているのである。メンバーの事件やトラブル、物議を醸す発言など、そういうものがどうしても強く印象に残ってしまう。気を付けて読まないと本書の主題は認識できない。改めて、ドリフメンバーの個性の強さを感じずにはいられない。

 

 逆に言うと、ドリフのエピソード満載の楽しく読める本ということになる。私もそういう期待を込めて手に取って、結果的には満足だった。

 

 ところで、仲本さんに先立って志村けんも2年前に亡くなったが、志村けんはドリフにとって決定的な存在だったと改めて知ることになった。それは、単に笑いが抜きん出ているからだけではなく、グループのゲームチェンジャーという意味においても。

 

 元々はバンドマンの集まりだったドリフ。荒井注と入れ替わるような形でメンバーになった志村けんは「ミュージシャンではなかった」と記され、続いて「ドリフはコミック・バンドとしての活動をあきらめざるを得なかった」と書いてある。あきらめざるを得なかった・・・、この一言は中々に重い。

 

 二人の交代劇がこんな大きな転換点だったとは思ってもいなかった。因みに、私は荒井注を知らない世代で、ドリフはコメディーグループだとばかり思っていた人間である。だから、音楽グループとしてのドリフを知ることが出来たのは新鮮だった。昔を知っている人は、きっと懐かしさに浸りつつ読むことになるのだろう。

関東大震災 吉村昭著

題名 関東大震災
著者 吉村昭
発行所 文藝春秋
発行日 2004年8月10日
ISBN4-16-716941-X

 

 読んだ本の発行日をメモするようになってから気付いたのだが、本の発行日はリセットされることがある。本書の場合、1973年に出版されたのが最初で、1977年には文庫化、2004年に新装版が出された経緯がある。という訳で、私が読んだのは新装版になるのだが、奥付だけ見て新しい本だと早合点してはいけない。18年前の新装版を新しいと表現するのもどうかと思うのだが・・・。

 

 さて、関東大震災が発生したのは1923(大正12)年9月1日で、最初に本が出された年は震災発生から丁度50年目の節目だった。当時はまだ震災を経験した人たちが存命で、生存者の生々しい証言も現れてくる。証言の一つの場面として、あの有名な「本所被服廠跡」も登場した。

 

 本所被服廠跡。推計約3万8千人の犠牲者が出た場所である。3万8千人という数は、関東大震災による全東京市の死者の55%強に達し、「関東大震災の災害を象徴する」という本書の表現は全くその通りだと思う。

 

 この本を読む前の昔の話、被服廠跡で起きた実態を知りたくて一度訪れたことがある。東京都墨田区にある横網町(よこあみちょう)がそれで、復興記念館や慰霊堂も見て回った。火災で飴の様に変形したモーターなどの金属製品が今も屋外に展示されていて、火勢の凄まじさが伝わってくる。国技館が近く、勘違いして横綱町(よこづなちょう)と検索したのはここだけの話。

 

 広大な敷地にもかかわらず、この場所だけで万単位の死者が出た原因は、今流行りの言葉で表すならば「密」だったからだろう・・・と、自分なりに整理すると次のような感じになる。

 

1.被服廠跡にすし詰めになる程の人々が入り込む。多くは家財などを伴って。
2.火が周囲に迫ると、やがて火の粉が家財や服にかかってくる。
3.すし詰め状態なので、人々や家財にたちまち燃え移る。逃げるにも限度がある。
4.ひしめく中で転んだり倒れたりした人は踏み殺されていく。倒れた人にも引火。
5.やがて火災旋風が起こり、人々が飛ばされる。

 

 感染症と同じで、火災でも密は避けないといけない、というのが本書から得た教訓だが、密を避ける前に火を避けないといけないのが一番難しい。不安極まる災害時に少人数で耐えられるかという問題もある。

 

 この作品は、基本的には時系列に沿って起きた出来事をそのまま書き連ねているだけのような文章に見えるが、どういう訳かこれが読み飽きない。吉村作品の不思議な魅力である。ともあれ、私の中の吉村昭ブームもこの作品で一段落である。

闇を裂く道 吉村昭著

題名 闇を裂く道
著者 吉村昭
発行所 文芸春秋 
発行日 2016年2月10日
ISBN978-4-16-790550-7


 東海道本線にある「丹那トンネル」という鉄道トンネル工事の一部始終を書き綴った小説である。昭和61(1986)年に静岡新聞に掲載されたのが最初で、昭和62(1987)年には上下2巻で単行本化、平成2(1990)には文庫化された。私が読んだのは平成28(2016)に刊行された新装版である。

 
 丹那トンネルは大正7(1918)年3月に起工し、16年もの年月をかけて昭和9(1934)年3月にトンネル工事が完了。使用開始は同年12月である。総延長7804メートルは複線トンネルとしては当時日本最長を誇り、当初は7年で完成する予定だった。7年でも十分に長いが、実際はその倍以上の年月を費やし、工事がどれだけ大変だったかが察せられる。

 

 トンネルの両端は東京寄りが熱海口、大阪寄りが三島口で、それぞれに工事の請負会社が異なっていた。三島口は鹿島組が請け負った。現在の鹿島建設である。この会社のホームページを見ると丹那トンネルの事が写真付きで紹介されているが、百年を超える鹿島の歴史でも相当なインパクトがあったのかと思うと、中々に興味深い。


 私が丹那トンネルの存在を知ったのは小学生の頃、道徳の教科書で読んだのがきっかけだった。ストーリーは殆ど忘れたが、工事中のトンネルが崩落し、奥に取り残された作業員たちは暗闇の中で不安だったが、その内の一人が歌を歌って皆を元気づけた。自らも恐怖に苛まれながら勇気を絞って周りを励ました行動が道徳性に富んでいた、という話だったと思う。

 

 この出来事は、小説を紐解くと大正10(1921)年4月1日、熱海口で発生した崩壊事故となって現れてくる。救出されたのは4月8日なってからで、飢えを凌ぐ為に藁を口にしたとか生々しい描写も多い。救出に手間取った外の救助隊は遺体収容になると思っていたから、正に奇跡の生還。後世にまで語り継がる訳である。

 

 この事故が片付いた時点で、本のページはまだ半分以上が残っていた。歴史的にも完成はまだ10年以上も先の話。この先どんな困難が待ち受けているのか・・・、推理小説でもないのに先が気になって仕方がない。500ページの長編小説、気長に読むつもりが一気に読み徹してしまった。

 

 ところで、読み終わった私は丹那牛乳が飲みたくなって、都内で扱っているという店を見つけて手に入れた。もの珍しさに惹かれてケールのヨーグルトもついでに。

 トンネル工事は途中から大量の湧水に苦しめられることになった。対照的にトンネルの真上にある丹那盆地では渇水に悩まされ、稲田やワサビ田に水が引けなくなっただけでなく、飲み水にも事欠くようになる。後から判明したが、一帯は地下水で潤っていたのである。地元集落からは請願が起こり始め、やがて荒ぶる感情にエスカレートしていく。これが小説後半のメインになる。
 
 何年も揉めに揉めた挙句、農民たちは巨額の補償金を勝ち取ったものの、失った水は戻っては来なかった。丹那盆地では以前から酪農が営まれていたが、渇水を機に水田耕作の代わりとして酪農に力を入れるようになったという。その流れを汲んでいるのが丹那牛乳である。

 

 これを知ったとき、何故だろうか、渇水で穏やかな生活を奪われた丹那盆地の農民たちに同情してしまった。小説の力なのか?ともあれ私は往時を偲んだつもりになって丹那牛乳を味わった。牛乳はコクがあるし、ヨーグルトも酸味が無くて普通においしい。近所のスーパーに置いてあったら間違いなく普段使いの品になるだろう。

 

 なお、この小説は鉄道史については宮脇俊三氏にご教示頂いたという。最後は東海道新幹線の新丹那トンネルで締めくくられていた。

わたしの流儀 吉村昭著

※今回は画像なし

 

題名 わたしの流儀
著者 吉村昭
発行所 新潮社
発行日 2001年5月1日
ISBN978-4-10-111740-9

 

 文庫本を読んだので発行日は2001年となっているが、元々は1998年に刊行されたものを文庫化したらしい。以前に読んだ「三陸海岸津波」は興味深い内容で、この作品がきっかけで吉村昭という作家に興味をもつようになった。

 

 2006年の逝去から16年も経っているにもかかわらず、書店に行けば本棚に見出し付きで新品の文庫本が幾つも並んでいる。文学界には全く疎いのだが、紛れもない大作家だったのだろう。それにしてもどんな人物だったのだろうか?作品の内容と同じくらい作者にも興味を持つのが私の特徴かもしれない。吉村作品の2つ目は、随筆集「わたしの流儀」である。

 

 結論から言うと、吉村昭は典型的な昭和の男であった。昭和2年生まれなので当然といえば当然だが、読んでいると懐かしさを感じるのである。そういえば、昔はこんな大人たちばかりだったなぁ・・・。私も含めて、令和の大人たちは随分と様変わりしてしまった。

 

 随筆は6つのテーマに分けられていて、そのうちの一つが「酒肴を楽しむ」という題で酒と食についてのものがあった。昭和男のイメージに反して(?)、この人は意外にも食に関しては小煩い。外食の頻度が多いのにも驚いたりする。

 

 現代の「食レポ」にすっかり慣らされた身としては、食欲をそそるような凝りに凝った形容表現を巧みに織り交ぜているのだろうと期待を膨らませる。しかし案に相違して「うまい」の一点張りばかりだった。拍子抜けする位の実にシンプルな描写だったが、文章の面白さは美辞麗句のみに非ず、という事を教えてくれる。

 

 ところで、この随筆集の「トンネルと幕」と題した一編で、吉村昭が「闇を裂く道」という鉄道トンネルを題材にした作品を手掛けていたことを初めて知った。

 

 昔、トンネル走行中の蒸気機関車の煤煙対策としてトンネルの入り口に開閉できる幕を設けていた事があったらしい。「幕」とはそういう意味である。昔の御殿場線での話だが、当時の御殿場線東海道本線の一部であり、同時に大動脈である東海道本線の隘路でもあった。

 

 隘路打開のために御殿場線とは別の線路を作り、丹那トンネルという新たなトンネルが掘られることになるのだが、これが「闇を裂く道」のテーマとなる。僅か2ページほどの短編に「闇を裂く道」の面白さを垣間見たような気がしたので、次の吉村作品はこの長編小説を読むことになった。果たしてどんな物語が展開されるのか・・・。

軍旗はためく下に 結城昌治著

題名 軍旗はためく下に

著者 結城昌治

発行所 中央公論新社

発行日 1973年9月10日

ISBN4-12-204715-3

 

 第63回(1970年上半期)直木賞を受賞し、1972年には映画公開もされた作品である。

 

 ロシアによるウクライナ侵攻のせいで、どうしても戦争に敏感にならざるを得ない。産経新聞ニュースサイトで紹介されていたのが読むきっかけだったが、記事の「陸軍刑法」という言葉と、リアルタイムで報道される「戦争犯罪」という言葉がくっついてしまった。

 

 ウクライナに侵攻したロシア軍兵士が略奪した品物をベラルーシ経由で母国へ送った、という内容のニュースを読んだときは唖然とした。戦争犯罪に急に関心を抱いた一件だった。決してお気楽な戦いではなかろうに、それも兵器の鹵獲ではなく民間人の私物だったものを・・・。我が国が他国から侵略されたら同じ事が起きるのかと思うと、憂鬱この上ない。

 

 さて、この本はそんな戦争犯罪とは少し異なるものである。交戦国に対して行った罪ではなく、日本軍の内部で起きた事件に対して理不尽に処刑された兵隊たちの話である。あとがきには「素材となった事件は存在するが、あくまでフィクションとして書いた」とあるが、これは絶妙な表現である。「事実を基にした小説」というのとも違う感じ。言いたくはないが、しかし言わない訳にはいかない・・・といったある種の使命感が伝わってくる。

 

 50年以上前の小説だから古本屋をちょっと探せば安く手に入るのだろうが、2021年に出された増補新版を読むことをお薦めする。何が増えたかって、著者自作解説が追加されたのだから。

 

 私も最初に読んだのは、古書店で購入した2006年の改版のものだった。上の書影も改版のものである。しかし日が経つにつれて増補新版が気になってしまい、結局図書館まで出向いて借りてきてしまった。10ページにも満たない追録だったが、やはり作者自身の言葉は重いと改めて感じさせられる。

三陸海岸大津波 吉村昭著

題名 三陸海岸津波

著者 吉村昭

発行所 文藝春秋

発行日 2004年3月10日

ISBN 978-4-16-716940-4

 

 今からちょうど126年前の1896年(明治29年)6月15日は三陸沿岸で大津波が発生した、いわゆる明治三陸地震の日である。地震発生時は蒸し暑く、生き残った者たちは裸同然の姿だったそうであるが、雨が連日続くと気温は急に低下し、寝具など一切失った被災者たちは寒さに身を寄せ合って震えていたとも書いてある。

 

 関東も先日6月6に梅雨入りし、気温の変化も大きく、半袖か長袖かと天気に左右されながら袖を通すものを変えている今日この頃。読み始めから被災当時の描写がより一層生々しく伝わってくる。

 

 本書は歴史の順番通りに、明治三陸地震昭和三陸地震チリ地震津波の3つの地震津波について記されている。昭和三陸地震は1933年(昭和8年)3月3日に発生したとあるが、東日本大震災は2011年(平成23年)3月11日に起きたから類似性を感じずにはいられない。まだ春とは呼べないみちのくの3月上旬に避難を余儀なくされた方々の厳しさが思い起こされる。

 

 もっとも、発生時刻については真逆も真逆で昭和8年のときは午前2時半頃、平成23年のときは午後3時前だったから、地震発生当時の状況は全く違っている。また、昭和のときは「アウターライズ地震」と呼ばれるもので、震源域も東日本大震災とは異なる。

 

 作者の吉村昭氏は記録文学の第一人者であるという。ノンフィクション、ルポタージュ、記録文学。実はこれらの違いがサッパリ分からないが、この作品はやはり記録文学という表現がふさわしいだろう。霧雨を糠雨と表現したり、津波の方言である「よだ」という言葉に言及したり、被災した子供たちの作文を引用したりと、文学らしさが伝わってくるからだ。

 

 この本は、東日本大震災後に増刷して随分と売れたという。私は古本屋で購入したのだが、奥付を見ると「2011年4月1日 第8刷」とあるから、元の持ち主は震災に感化されて購入したことは想像に難くない。

 

かく言う私は何に感化されたのかと言うと、昨年12月に発表された「日本海溝・千島海溝沿いの巨大地震の被害想定について」である。最大19万9000人が死亡するとの被害想定を公表したアレである。あの東日本大震災に比べても桁違いの数に正直驚きを隠せなかった。

 

 岩手出身の私にとっては非常に興味深い一冊であったが、吉村氏は他に「関東大震災」という著作も残してあり、いま関東に住んでいる私にとってはこちらこそ読まねばなるまいか。何だか氏の作品にどっぷりとハマりつつある予感がする。

不戦海相 米内光政 生出寿著

※今回は画像なし

 

題名 不戦海相 米内光政
著者 生出寿
発行所 徳間書店
発行日 1989年5月31日
ISBN4-19-813966-0

 

 2017年に光人社NF文庫からも発行されたが、私が購入したのは1989年発行のハードカバーのもので、横須賀市内のリサイクルショップにて発見した。

 

 米内光政は旧日本海軍横須賀鎮守府司令長官を務めた経歴があるのだが、所縁の地で日に焼けた状態で二束三文で置いてあったのが何となく不憫に思えてしまい、捨て猫を拾うような気持ちで(というと大袈裟だが)手に入れたのである。

 

 海軍大臣や総理大臣を務めたので、戦前・戦中の歴史において語られることも多い。こういう人物を取り上げるにあたっては、特に誰が書いたか(著者の思想的背景)が重要になる。

 

 著者の生出寿氏は1926年生まれで海軍兵学校第74期、海軍少尉であったという。という事は1945年3月兵学校を卒業して1年も経たずに少尉の任を解かれた(敗戦により軍隊解散)のだろう。1年未満ではあるものの、れっきとした軍人に間違いはないが、本書の発行は著者が63歳のときで、読んだ限りにおいてはやはり戦後以降の影響を受けているように感じられる。所謂「サヨク」とは違うのだが。

 

 本書の著者の主張は明快である。「・・・べきであっただろう」という表現はその典型である。その著者の意見が正しいかを判別するだけの知識を私は持っていないが、少なくとも戦中史を考察する上でのポイントは与えてくれている。

 

 ちなみに、著者の視点では本書で見てほしいところは7点あると明言している。但し、それは「あとがき」の一番最後に書いてあるので注意されたい。「まえがき」は無い。加えて言うと章番号も無いが、章題に相当するものが26あるので、26章構成としよう。米内が登場するのは5章からで、1~4章が長いプロローグという感じである。

 

 ところで米内光政には独自の読書法があるという。曰く「米内さんは、このごろは頭が鈍くなったから本は三度読む。始めは大いそぎで終わりまで読み通し、つぎは少しゆっくり、最後には味わって読む、といっていたことがある」、と。

 

 実は、私は同じ本を二度読みしているのだが、それはこの米内流読書術の影響である。流石に三度読むだけの悠長さは無いので「少しゆっくり」は省いているが、一回目は急ぎ、二回目(最後)は熟読するスタイルは同じである。