やまびこ停車場

ただいま、過去に投稿した記事の一部を非公開にしております。

飯田線乗り潰し ~飯田駅前にて~

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2011年1月  飯田にて
 
飯田線乗りつぶしの旅-その2
 
伊那松島から列車に揺られること、およそ1時間半。
今度は飯田で途中下車しました。
 
次の列車まで約1時間強。その限られた時間内でどこを観て来ようか・・・
駅に観光案内所が併設してあったので覗いたところ、駅のすぐそばに石碑がある事を知ったので
ささやかながら、それをじっくり見ることとしました。
 
その石碑はと言うと・・・
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伊原五郎兵衛翁の石碑。
何を隠そう、飯田線(の前身の私鉄)敷設の功労者!
 
飯田線は、元は私鉄4社(豊川鉄道、鳳来寺鉄道、三信鉄道、伊那電気鉄道)を国有化して出来た
路線なのですが、伊原翁はその三信鉄道と伊那電気鉄道に関わった人物でした。
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裏には碑文がありました。
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墨が随分と剥げていて、何が彫られているのか分かりづらい・・・。
それで、デジカメに撮ってウチでゆっくり解読することにしたのですが、
肉眼で見づらいものは、写真でもやっぱり見づらくて、もっと大きく撮ればよかったと反省。
 
仕方が無いので、分かった範囲で碑文を披露します。間違いはどうかご容赦を。
伊原五郎兵衛氏は伊那谷交通開発の功労者なり 明治十三年飯田に生れ
同三十九年東大法学部を卒業夙に尚志社の発展に寄与し人材育成に○○
せり 当時中央西線の路線選定につき二条の候補線あり一は伊那の谷を
一は木曽谷を経るものとして両線の沿道住民はその招致運動○狂奔せし
が遂に木曽谷経由に決せり 茲に於て郷土の先覚者相寄り辰野飯田間私
設鉄道敷設の運動を起し氏の先考之に関与し氏亦その後を承けて伊那電
気鉄道株式会社の創業に参画○爾後東奔西走之が建設経営に渾身の努力
を致すこと二十年○○昭和二年十二月辰野天竜峡間八十粁に亘る電気鉄
道を完成せり 更に三信鉄道敷設の難工事に尽力しかくて表裏日本短路
連絡を見るに至りたるすべてこれ氏の卓越せる識見と手腕とによるもの
にして郷党等しく感激するところなり
茲に有志相謀り文を選び石に勒して氏の偉大なる功績を永く称えんと
                昭和二十六年十一月三日          云爾
                  伊原五郎兵衛頌徳碑建設会
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労苦を厭わぬ郷土の先人達によって築かれた鉄路な訳でして、思い返せば、この飯田線
地域に根ざした路線の雰囲気が一際あったかもしれませんね。ローカル線にしては、駅間距離が
短いのも、沿線集落ごとに設けられた事に起因するようで、言い換えれば地域密着型なのでしょう。
 
そういうことを頭の片隅に入れ、次の豊橋行きの列車に乗ったのでした・・・。