2011年5月 宮古市内にて
実は、連休の帰りに岩手県の沿岸地方に寄りました。
政府は、復興支援の妨げになるという理由で、被災地への立ち入り自粛を求めていましたが、
妨げにならない限りにおいてはこの惨状は見るべきだと、私はそう思います。
天地の営みは人知を超えたもの、時にそれは凄絶であることを忘れてはいけない、ただそう思ったから。
さて、私は盛岡から国道106号を東進して宮古市へ行き、そこから国道45号を釜石まで南下し、
そして再び内陸に戻るルートを取りました。
宮古市は湾の形状が幸いしたのか、思ったよりも酷い状況ではなく、町の機能はだいぶ回復したと
思われます。しかし、海沿いに行けば上の写真の通り、やはり酷い。
ビジュアル的には瓦礫とか倒壊家屋に目が行きがちですが、45号沿いの信号は停電のまま、
柱も傾いたまま、ガードレールの類は悉く(ことごとく)ひしゃげていて、被害の根深いことを
痛感させられます。
それと船も小型の類はあちこちに打ち上げられたまま。散乱している船の数はとにかく多かったです。
南下するにしたがってテレビで見たような本当に酷い光景に次々に出くわして・・・。
酷いところは本当に酷くて、2ヶ月たっても、ようやく幹線道路が通れるようになった位の回復しか
していませんでした。
山田も波板も壊滅。あるのは更地かそれとも瓦礫かという感じ。「壊滅」と述べましたが「全滅」と
表現したほうが正しいかもしれない。吉里吉里(きりきり)で、自分の目線よりもはるか高い所にまで
瓦礫が散乱していたのを見たときには恐怖を覚えました。「これが津波の猛威なのか・・・」、と。
随分収まったと思うのだけど腐った臭いが蔓延していて、それで大槌まで下った頃には
もう嫌気が差してしまいました。が、逃げてはいけない。これは現実。これから目を逸らす訳には行かない。
そして最後の町、釜石市に到着。密集している分、ここが一番酷く感じられました。瓦礫もあまり片付いて
いない様子で、さながらゴーストタウン。自衛隊の方が多くいて、戦地と勘違いするような雰囲気でした。
あまりの酷さで、沿岸を離れたときには本当に安堵してしまいました。
「もう酷いのを目にすることは無いのだ」と・・・。
さて、こちらは先日買って来た茨城新聞社発行の震災記録。
東北3県の陰にすっかり隠れてしまいましたが、茨城も相当の被害を被りました。