やまびこ停車場

ただいま、過去に投稿した記事の一部を非公開にしております。

多賀城-後編

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2008年4月 多賀城跡にて


多賀城とは・・・

奈良時代に朝廷が我らが故郷奥州を征服せんがために築かれし城の一つ。
以後、数度の改修があったらしく、平安時代までは使われていたと言う。

奥州征服の拠点としては他に胆沢(いさわ)城、紫波(しわ)城なんかもあって
胆沢、紫波は今も地名として残っているのだけど、
多賀城だけ「城」がついたまま残っている。・・・何で?

遺跡としてしっかり整備されているのは城の中枢部分に当たる政庁と
呼ばれるところだけだったのでそこを見る。
広さにして言うと、大体学校一つ分の大きさかな?

政庁跡は上の写真の通り。

ここの非常に!良かった点は、写真手前に見える復元模型。
これだと、どんな建物だったのかが分かる・・・のは当たり前だけど、
模型の眼前に実物の遺跡が広がっていて、この箇所にある遺構がどんな形
だったかが、タイムリーに一目瞭然!

模型の一番手前にある真ん中の一段大きなヤツが「南門」と呼ばれる門で、
実際の遺跡は写真中央部の横長に伸びている茶色の部分がそれに相当する
(写真に見えている黒い塊(石なんだけど)に「南門跡」と刻まれている)。

「正殿」と呼ばれる政庁の中でも中枢に当たるところは、写真奥に
見える(見づらい?)一段高い部分にあった。模型だと、外壁に囲まれている真ん中の建物。

ほーら、やっぱり一目瞭然だ!(笑)

ところで見ていて疑問に思ったのは、「衣食住はどうしていたのだろうか?」というトコ。
私に言わせりゃ、この遺構、どう見ても「城」ではなくて「神殿」だ。

確かに、祭祀儀礼を行っていた場所に相違なかったんだけど・・・
寝所、炊事場、長屋に相当するところもどこにあるんだか分からなかったし、
それに井戸も見当たらなかったし、私の感覚から言うと、生活感が全く感じられない。

日常生活とか城の維持は如何な営みだったのだろうか?今もって謎。
うー、そういうのが知りたくなってきたなぁ。

そういうわけで、多賀城跡を後にしたのでした。おしまい。


ワガママ勝手の五つ星評価

★★★☆☆

ま、遺跡だし、こんなもんかな?
復元模型のお陰で理解はとてもしやすかった。
東北古代史好きな人は必ず行くべし!