やまびこ停車場

ただいま、過去に投稿した記事の一部を非公開にしております。

関西周遊-番外編・姫路城

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2004年3月  姫路城


お城大好きな私が、今回の関西周遊で、明石のお城に行って、姫路のお城に行かなかったのは
理由がありまして、何のことはない、昔見てきたからなんです。

そういうわけで今回は番外編になりますが、どうぞお付き合い下さい。

言わずもがな、カッコいいですね~。
しかし、よくよく見ると天守や櫓、長屋などが所狭しと建っている様は要塞そのもので、
どうこう言いながらもヤッパリお城というのは軍事施設ということを感じさせられます。

姫路城の築城者は南北朝時代・1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範とする説が
有力であり、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。

1580年(天正8年)、黒田孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言した。
秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行なった大改修により姫路城を姫山を中心とした
近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、さらに天守(3層と
伝えられる)を建築した。あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の
中心地となるように整備した。

1601年(慶長6年)、木下家定は備中足守に2万5,000石で転封、代わって池田輝政関ヶ原の
戦いの戦功で52万石(播磨一国支配)で入城した。輝政は徳川家康の意を受けて1601年(慶長6年)
から大改修を行ない、8年掛けて広大な城郭を築いた。

現在の城郭は、関ヶ原の戦いの後、家康が豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する目的で
改修させた城である。城主が幼少・病弱・無能では牽制任務を果たせないので、担当する
大名が頻繁に交替している。

引用:Wikipedia
広場にあった、鯱(しゃち)の複製。
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鯱というのは雨を降らせることが出来るので、火防の意味合いで飾られているのです。

・・・ということをこの城を見学して初めて知ったと記憶していますが、
もう6年も前だし、あちこちでそういう情報を目にしちゃったので、確かな自信はありません。

ともあれ、落雷にも戦災にも遭わずに今なお立派に存在!やっぱりこれは鯱の御力か?


天守より城下を見る。
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奥の大通りの向こうがJR姫路駅。
山陽新幹線に乗ったことがある方はお分かりでしょうが、沿線からバッチリお城が見えます!

実は初めて生で見たのは、これよりももっと昔、広島から帰京途中の新幹線の中からでした。
新幹線だったから一瞬だったけど、あの感動は未だに忘れちゃいません。

遠くの山を見るが如く見るお城の姿は、その重厚な威厳を八方に放っていました。
さすがは日本を代表する名城郭。

続く